Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

僕は人の名前を覚えられないし、覚える気もさらさら無い

f:id:AnnieAreYou:20200402005057j:plain

今回は人間の名前を話題の端緒に記事を書いていきます。

 

僕は人間の名前をとことん覚えられない。高校の時に好きだった女の子の名前を覚えられず、何十回と会っている友達の名前が覚えられず、担任の先生の名前が覚えられない。先輩・後輩の名前も覚えられず「先輩」や「オメー」と呼んだりしている。

 

この現象の原因をずっと考え続けていた。そして一つの答えにたどり着いた。その理由とは「他人の名前などどうでもいい」からである。もっと言えば自分の名前さえもどうでもいい。なぜなら名前というのは何かを代替的に表現する記号に過ぎないからだ。

 

名前を憶えていないことが本人にバレた時「僕・私のことが嫌いなのか」と聞かれるがそういうわけではない。あくまでも名前という記号がどうでもいいのである。

 

例えば算数において「ひとつのリンゴ」は「1」という記号に置換される。「右のお皿にリンゴが1つ、左のお皿に2つ。リンゴは全部でいくつでしょう」という問いは「1+2=?」と表現される。

 

しかし、厳密に言えば「ひとつのリンゴ=1」というのは成り立たない。1はどのように考えても一つのリンゴと等しくない。1という数字に「ひとつのリンゴ」という意味は全く含まれていないではないか。「ひとつのリンゴ=1」というのは、あくまで便宜上・文脈上の表現であって本質的に全く正しくない。

 

また例え問題文という文脈において「ひとつのリンゴ=1」ということが成り立つとしても、この等号が本質的に成り立つことはあり得ない。なぜなら「1」という表現は「ひとつのリンゴ」に本来含まれるりんごの味、色、食感、匂いなどが捨て去られ、ただ「リンゴが一つあること」という意味に限定されているからだ。

 

この理屈で言うと「山田太郎という名前=山田太郎」という常識的な認識は成り立たない。つまり、あなたの名前を憶えていないからと言って、私はあなたを軽視しているという事実はない。私はあなたの名前を忘れはしたが、あなた自身を忘れてはいないからだ。

 

名前をその人自身に付随する単なる記号と見た時、その記号を尊重する意味というのは「呼ぶときに使う」とか「指示するときに使う」という役に立つか否か、という利便性へと換言される。

 

以上のことをまとめる。

 

名前は単なる記号であり、その人自身ではあり得ない。この認識に基づき記号をその人自身と同じものと認識せず、なおかつ他人を便宜上の存在と考えていない自分にとって他人の名前を覚えることほど無意味なことはない。これが私の「人の名前が覚えられない理由」であると自己分析する。

 

この結論を支持する理由として、僕は名前に加えて他人の誕生日や恋人との記念日、職業や年齢も覚えられないという事実が挙げられる。これらもよくよく考えてみれば名前と同じく取るに足らない記号にすぎない。

 

そんな軽薄な記号より目の前に実際に存在している、その人自身が一番大切で尊重されるべきであると本気で考えている。同じような感覚の人間がこの記事を読んで以降、このように説明し、他人に納得してもらえるようになれば幸いである。

 

補足:自分の名前さえも重要視していない、という点について補足。自分の名前は親がつけたもので、僕は一切関与していない。関与していたとしても生得的な体のパーツの有無だけで男か女か、というこれまた記号的な観点での関与に過ぎない。なのでやはり自分の名前や性別さえも本質からかけ離れた記号の一種とみなし、重要視することはない。

 

逆に生まれたのちに自分の意志で名前を変えた人間の名前は覚えるに値するものだと考える。だから芸名やアーティスト名は簡単に覚えられるのかもしれない。