Re Another Life

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『文化と両義性』 昼と夜のメタファー・呪術の失敗・対立物の一致

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山口昌男の『文化と両義性』を図書館で借り付箋だらけにしたものの、返却期限が近づいてきたので、付箋でチェックした部分を本文の引用とともにここに残しておく。主に神話における事象を扱っており、自分のような全くの神話の素人でも楽しく読むことができる名著である。

 メモ:「混沌」=「周縁」=「総合体」(p.15)

 

神話的思考において秩序に対抗する混沌は端に追いやられる。しかし、それは脇役を演じるという意味ではなく、むしろ成年式で重要な役割を負うものが仮面仮装した敵対集団から選ばれるように、総合体を形成する中心的な意義を持つ。ここでは軽視されがちな「周縁」がどのように働くのかが論じられる。

 

メモ:昼と夜のメタファー(p.18)

 

『昼―恒常性・秩序・和・光・理性・友愛・恩情

夜—秘匿・呪術・奇蹟・発明・創造・暴力』

(p.18,19)

 

様々な文化の神話の中で志向神は双面神、つまり二面性を持ったものとして描かれる。昼のメタファーが意味するところは何となく理解できそうなものだが、夜の側は同だろう。

 

山口昌男が説明するに夜のメタファーは根本的に「結び合わせる」という意味を持つ。ここから保留する、隠すという表現が派生してくる。そして本来表出してくるべきものを隠すとき、そこにはある種の無理が生じている。出生してくる子供を腹に収めておくことは相当の無理のはずだ。

 

そこでこの無理のある保留の後にしかるべき暴発が現れる。それが発明・創造である。しかし、暴発には悪い影響こそが先に想起される。それが暴力といった形で現れている。

 

メモ:一神教=一元論的な考えへ帰着(p.20)

 

これにはハッとさせられた。唯一の志向神が世界を作ったのならば、その世界の善い部分も悪い部分もその神に仮託されなければならない。しかし、キリスト教に顕著なように、悪は積極的に悪魔に託されてしまう。これは一神教を政治的、文化的、伝道的に利用するにあたって被った変化なのではないだろうか。

 

多神論的な世界観において、善悪どちらの性質を持つ神は比較的マイナーな扱いを受けるという事実にもこの現象は対応している。

 

メモ:「原論理復元学(ロゴロジー)」における対立物の一致(p.37)

 

『バークのロゴロジー(原論理を抽出する技術)からいうと、これら二つの概念は相互規定的であって、対をなしてはじめてその存在が確かなものになる。従って「秩序」という言葉の中に「反秩序」という言葉が潜在的に含まれ、逆に「反秩序」の中に「秩序」が含意されている。』(p.36)

 

ここでは争闘神話が話題となっている。争闘神話において一方の神は秩序の側に、もう一方の神は反秩序の役割を担う。しかし、どちらか一方が勝利したとしても、それは次の争闘によって敗北するまでの準備であって完全なる勝利ではない。この意味で相対立する概念にはそれぞれの意味が含まれているという。

 

ここは私の関心の焦点である西田幾多郎の思想と、かなり共鳴する部分であると考えている。

 

メモ:偽王(モックキング)としてのキリスト荊の王冠(p.43)

 

ユダヤ教ヨハネキリスト教のイエスの”神話”が進行方向を逆にして、明らかに一致しているという話。つまり、現代的と考えられるキリスト教も神話の類型に属している、という趣旨だ。

 

ヨハネが荒野(=自然)に出発して市中(=文化)で死に、イエスが市中に出発し荒野で死を迎えるというように、進行方向が逆である』(p.42)

 

ちなみに僕が目を引いたのは偽王(モックキング)という要素で、道化のエッセンスがキリストに見られたことに驚いたからであった。

 

メモ:カーニヴァルの偽王の伝統(p.45)

 

あまり詳しく説明されていないが先ほどの争闘神話のように、一方が勝ったからと言って敗北した神が消滅するわけではないということが、ここではカーニヴァルの偽王にもみられるという。敗者が残る場合には二つのパターンがある。

 

一つは打ち破られた敗者が、反乱を起こすかもしれないという脅威の下に生き残る場合。もう一つは敗れ去った側(の原理)が季節などに拠って周期的に復権(して再び倒される)する場合である。

 

メモ:呪術の失敗の対抗呪術による説明(p.46)

 

争闘神話は人間達による儀式で再演される。反秩序が台頭し、秩序がそれを打ち破るという儀式は、神々によって人間が守られていることの確認作業なのである。しかし、その儀式が失敗することがある。呪術の失敗は対抗呪術によるもの、つまり部族内に見えない裏切者が存在することによって説明される。

 

ここで裏切者として挙げられるのは、恐らく村の利益を損なわせる者なのではないだろうか。そのようにして内在的な裏切者を排除し、より秩序的な部族を構成するのにこの論理は一役買っている。魔女狩りにおけるウィッチクラフトのでっち上げなどもこれに該当するのだろう。

 

メモ:「構造、語、出来事」における「語」の媒介的役割(リクール)、レヴィストロース批判(p.55)

 

構造は通時的なものであり強硬な性質を持つ。これに対して出来事は共時的でその時々の柔軟な性質を持つ。この相対する概念を「語」は媒介するという。どういうことか。

 

『語はシステムと行為、構造と出来事の間の交換手のようなものである。一方では、それは構造から、差異的な値として立ち上がるが、それはこうした時意味論上の潜在的性質の表現でしかない。他方、それは行為と出来事の中から姿を現す。』

(孫引き、『La structure, le mot, l'événement』p.93) 山口昌男訳)

 

 語には構造の硬さと、出来事の柔らかさのどちらをも持つ両義性がある。まさにこの本のタイトルとなっている両義性を。それゆえに対立する概念同志を媒介する役割を担うことができる。

 

この抽象的な事実は神話だけでなくあらゆるものに適用できるように思える。なぜならそもそも神話が世界を描写するために使われた手段であるのだから。