Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

沖に流れ去る映画レビューを拾って繋ぎとめる

最近Filmarksという鑑賞した映画を記録しておけるウェブサイトを使い始めました。僕がこの短い人生で鑑賞した映画は204本らしかった。記録用とは言うもののそこに投稿した感想は、時間がたつにつれて膨大な情報量によって沖に流されネットの海に消えていくのが定めである。

 

そこで、この記事では最近Filmarksに投稿した駄文をコピー&ペーストし、ビッグデータの一部になろうとしているレビューを繋ぎ留め避難させることにする。最近の趣味の偏り具合によってホラー作品が多めとなっている。たった4作品の、それも短いレビューなので見ていってほしい。

 

ラインナップは『グリーンインフェルノ』『らせん』『ムーンライト』『ミッドサマー』。ネタバレはある。

 

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グリーンインフェルノ:愚かな近代人ミーツ野蛮な前近代人

We have never been modern.という著作がある。我々は自身の国を近代国家と呼び、自身を近代人と自認する。しかし、これは脆い基盤の上に築かれた、ある種の神話である。科学は全てを明らかにしないし、社会構築主義は穴だらけである。私たちはこの映画に出てくるような原住民と比較して自分たちを近代人と呼ぶがそれは間違いである。私たちは「私たち近代人」と「彼ら前近代人」という区別を敷くことはできない。

 

この映画ではブラックユーモアや皮肉を扱っているくせにこのことに無自覚である。彼らと私たちに線を引いてしまっている。だからこの映画に対する「植民地主義を強化する」という評価は正しい。

 

しかし、これは映画である。表現の自由に守られるべき作品である。表現することは自由である。だが、表現する自由があれば、その表現に対する批判の自由もまた認められる。作品としては楽しめたが差別に無自覚な映画であるという評価は正しく行われるべきだ

 

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らせん:リングシリーズの二作品目

「リングの続編」と聞くと頭の中で自動的にホラー作品に分類されてしまうが、今作について言えばその先入観は作品の見定めの妨げとなる。

 

と言うのも「ホラーとはこういうものだ」というシーンや展開はかなり抑えられ、代わりにリングシリーズの表現した思想というものを明確に打ち出しているからだ。

 

「リング」「らせん」「DNA」「ループ」、これらの重要な単語が連想させる通りこの世界は最初と最後が繋がる円環的な構造をしていることを示す。

 

特に今作においてこのことは顕著に表現される。貞子は殺されたことによってかえって呪いとしてこの世に残り続ける。また死亡し解剖されたはずの高山は最後には生き生きと微笑む。さらに高山の恋人である高野舞は死ぬのと同時に新たに産まれる。最後(死)と最初(生)が繋がっているのだ。

 

これほど主題を分かりやすく表現した映像作品があるのか、なんて思わされる。この作品が怖くない(ホラーではない)と評価されるのは考えてみれば当たり前のことである。

 

ホラーとは正体が分からない、という意味不明性に恐怖を求めるものである。そうするとこの作品は最初からホラーなどではない。なぜなら『らせん』は正体不明の怪物を論理的に解きほぐし理解するための作品だからである。

 

ホラーの構造の真逆をいく『らせん』が怖くないのは自明のことなのだ。

 

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ムーンライト:エモ

「エモ」の一言で片付けてしまいたくなる作品。

 

黒人、同性愛、母子家庭、違法薬物、いじめ、etc...。現実への問題提起と捉えられるエッセンスがこの作品には溢れている。

 

しかし、この作品を社会全体の問題を提起するもの、というマクロな視点で捉えたときシャロンという一個人は視界から消えてしまう。

 

この物語はあくまでシャロンという一人の人間の人生を描いたものであり、決してLGBTQの総意であったり、諸問題への啓発を謳うものではない。

 

一人の人間の人生を定式化することはできない。その難しさ・不可能性をこの映画は雄弁に語っている。シャロンの人生は「同性愛者」や「黒人」に還元されないし、彼の母親も単なる「毒親」には終始しない。その人の人生を一言で表すことなど不可能なのだ。

 

さいごに。「エモ」という言葉は言語化しきれない心の動きを表現する役割を担う。それはちょうど個人の人生を定式化し尽くせないのと同じだと思う。

 

汲み尽くせない感情・形式化してしまうと失われてしまう感情を「エモ」という表現は壊さずに掬い上げてくれる。ゆえにこの作品の感想を「エモ」と表現するのはシャロンという人間の人生をまるごと肯定するためにも有効なのではないかと思う。

 

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ミッドサマー(DC版):カルト(cult)へようこそ

オリジナル版と比べて、ホルガ村の文化や主人公とクリスチャンの関係がより丁寧に描写されていて作品全体の理解に間違いなく資するものになっている。

 

1回目、オリジナル版を見たときは部外者たちに感情移入し、ラストガールの彼女の幸せには共感できなかった。しかし、2回目鑑賞のDC版ではホルガ村のカルト要素がcultureとしてのcultとして理解でき、ホルガ視点から幸せな作品として享受できた。

 

しかし、DC版の追加シーンにも示唆されていたようにホルガ村のある種の選民思想も垣間見え、人類学をもって手放しに異文化として受容してしまえるものではないと感じた

以上4作品

 

この中でテーマのつながりが深いのは『グリーンインフェルノ』と『ミッドサマー』だろう。どうしようもない近代人が異文化に接触するという内容を共通して持っている。『グリーンインフェルノ』が食人族たちを徹底して野蛮に描いたのとは対照的に、『ミッドサマー』の異文化人たちは英語を話すし、その文化の内容も優れているように描写される。

 

前者は我々と異文化人が極端に断絶し、そのため相互理解が困難であることを強調する。しかし、後者の『ミッドサマー』は登場人物に文化人類学を学ぶ人間がいることから分かるように、異文化への相互理解可能性や、両文化の優劣のつけがたさを自覚している。だからこそ『ミッドサマー』で描かれる出来事は余計に悪辣で、人間や世界への信頼を損なわせるような作りとなっている。

 

また期待していたよりも面白い感想が出た作品として『らせん』が挙げられる。これはこぼれ話だが、僕は中学生のころ学級文庫にあった『ループ』(リングシリーズ3作品目)を自室で読んでいて、あまりの恐怖に既にボロボロであったその古本を凄い勢いで投げ捨てたことがある。恐怖を味わうという点では文字媒体が最強なのでは?と最近ぼんやりと考えている。

 

一方で『らせん』を見て出た感想というのは恐怖からはかけ離れている。目を引いたのはこの作品の反出生主義的なエッセンスである。反出生主義は生まれてくることを良しとしない考え方である。曰く「出生というのは子供本人の意思を尊重しない、親のエゴである」というのがこの主張の1つの骨子となる考え方である。

 

親はなぜ子供を生むのか?という疑問にリングシリーズは「自己保存のため」と答える。なぜなら親にとって子供はDNA的に「もう一人の自分」なのであり、自分が死んだとしても自分を残すことができるクローンのようなものだからである。

 

貞子は自分の念写したビデオをみせることによって、その人間を呪うことができる。呪われた人間は一週間以内に他の人間に同じビデオを見せなければいけない。この行動は貞子への手助けであり、貞子への自己の同一化ともいえる。映画内ではこのことを「世界が貞子になる」と表現する。つまり貞子はビデオを見せることによって自分の子供を生み続けるのだ。

 

貞子は実の父親に「生まれてくるべきではなかった」と言われ殺害される。勝手に生んだのはその父親であるという事実を無視して。だから貞子は反出生主義の申し子であり、出生の悪辣さをその復讐によって知らしめる出生悪の化身であるのだ。

 

大切にされなかった子供が自分を大切な存在とみなせず、結果その子供の子供(子供の半身)を大切にできない、という負の連鎖(リング)をこのシリーズは見事にホラーに落とし込んでいる。