Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

自分の裸を完全に認識することの難しさと現代哲学の潮流

必要最低限のスペースで一人暮らしをしていると、自分の裸を見る機会が少ないことにふと気がつく。

 

トイレと風呂、洗面所が一体となったユニットバス空間には洗面用の鏡しかなく、自身の裸は上中下と身体を3等分したうちの上1つしか見えない。

 

また風呂に入るにあたって湯船に浸かるということも皆無であるので折りたたんだ状態の裸体を見る機会もない。

 

これが実家に帰ると一転して、脱衣所の鏡、風呂場の全身を映す鏡が現れる。湯を沸かすことも当然あり、水の作用によって屈折して映る身体をしみじみと見たりして、自身の裸を見たのが久しぶりであることに気がつく。

 

なんとなく鏡で自身の裸全体を見ながら体を洗う。

 

この2つの風呂体験において、前者は自身の裸が物理的に見られず、後者は精神的に見られない。

 

両パターンの風呂体験では裸は「ただ洗われるためのパーツ」として現れる点で共通する。そこでの裸は「洗う」という目的が「裸それ自体」に先立って認識される。そのため「洗われる裸」(目的)が「裸」(そのもの)よりも重視される、というトンチキなことが起こる。

 

久々にあった友達に「急に太ったな」と指摘すると、「毎日見る自分の身体なので変化に気がつかない」という言い訳を聞くがこれは逆である。

 

多くの人間は自分の身体を、それが自分であるが故によく見ていないのである。「洗う」という目的が先立ち、実際に重要な自分の身体(裸)それ自体を真っ直ぐに見る機会が実はないのである。

 

人は「自分の身体のことは自分が一番わかる」と意識しがちだが、風呂場での裸のように実は目的や鏡や水といった媒介物を通してでしか自身の裸を認識していない。

 

自分が操っている(と思っている)自分の身体にさえ当人が意識できない「外部」が必ずあるのだ。

 

「分からないものがある」というのは現代人の真に恐怖する現象だと思う。治療法がない病気など存在しない(治療法が将来必ず見つかる)と意識の奥底で思い込んでいる人間もそう少なくないのではないかと思う。

 

しかし、絶対に理解できないもの、数値化できないものは存在する。そのことは他でもない科学的な知によって指摘され続けている。

 

そういった絶対的な外部を論じるのが現代哲学の一つの潮流である。以上はANT(アクターネットワーク理論)、OOO(オブジェクト指向存在論)、新実在論をかじった後に『天然知能』を読み、風呂での体験を端緒に現代哲学の非常に大雑把な潮流を書いたものである。