Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

民俗学的な道化(フール)としての『ジョーカー』

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本稿は映画『ジョーカー』に登場するアーサーという人物がいかに民俗学的な道化という枠で振る舞っているのかについて考える試論である。参考文献としては『道化の民俗学』『道化と笏杖』を主とする。気になった人は自分で読んでみてほしい、良書。

 

初めにアーサーはなぜピエロとしてではなく、道化(フール)として考察されるのかについて書くことにする。両者は共通項を持ちながらも異なる関係にある。というのもピエロもしくはクラウンとは道化が大衆化されたもので、ピエロはその起源として道化を持っているという構造がある。主力な説によるとコンメディア・デッラルテという仮面をつけた即興演劇にピエロの起源が求められる(『道化の民俗学』に詳しい)。ピエロと言えば風船とともに笑顔を届ける明るいイメージが根本にあるのではないかと思う。

 

それではなぜ楽しげなピエロが一転して恐怖の殺人ピエロになり得るのか。それは、翻ってピエロの原型である道化を見ることによって明らかになる。道化にはその明るく笑顔を振りまくピエロ的な傾向に加えて最も暗い負の面を抱え込んでいる。道化はある時には愚かなドジを行い人々を笑わせるが、またある時には狡猾な手段で人々を惑わせ扇動する。『ジョーカー』におけるアーサーは明るくあろうと努めるが、彼の精神的な障害や街の貧しい状況はそれを許さない。結果としてアーサーは悪のカリスマとして暴力の先導者となる。それゆえにアーサーは明るい面だけを拡大したようなピエロではありえず、明るい笑顔の裏に悪を肯定する素顔を隠した道化であるのだ。

 

それでは道化とは具体的にどのようなものとして民俗学で現れるのだろうか。ここではアフリカや中世ヨーロッパにおけるカーニバル的空間における道化の役割に焦点を当てて考えてみる。

 

カーニバルという語は日本では何やら華やかな行列というイメージがあるが、海外では宗教的な無礼講の時期の事である。キリスト教においては一週間ほどの期間を設けて宗教的に定められた決まりを思うが儘に破りまくる。例えば暴飲暴食の限りを尽くし、神への冒涜を吐くなど通常時の敬虔な信者には考えられない行動を街全体で行う。

 

アフリカの部族においてもこの儀式的な空間は度々発生しあらゆるタブーを犯す。ここではキリスト教の場合に比べてより象徴的である。通常時には決して殺してはならず、食べてはならないとされるトーテム動物を殺し、その肉を皆で分けて食べるという悪魔の儀式めいたことが行われる(例えば人類の友である犬など)

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そしてこれらの愚かな行いの中心には常に道化の存在がある。道化は率先して愚かな行いを見せつけ、大衆をその愚行の空間へと引きずり込んでしまう。道化の奇妙な行いは人々を「笑い」に誘う。そして「笑い」は何であれ今目の前にあるものを善悪の基準を超えて「笑えるもの」に還元し、肯定してしまう。本来悲劇と考えられる「人間の死」さえも道化の奇妙な動きによって演じられることで「笑える」ものになってしまう(『ジョーカー』のノックノックを思い出してほしい)。

 

しかし、肝心なのは道化は笑われるために奇妙な行いをしているのではない、ということである。道化の奇妙な動きや間の抜けた行動は彼が生まれ持った性質であり、彼が彼として自然に振る舞った結果の常識からの逸脱である。その逸脱を人々が笑う時に道化と人々との間に「笑い」という共通項が生まれ両者は一体化する。以上が道化の愚行によるカーニバル的空間の扇動のプロセスである。

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謝肉祭の様子、一面道化である

 それでは作中のアーサーを振り返ってみよう。アーサーはコ(ン)メディアンとして人々を笑わせるために奔走するが、彼の精神や貧しさはそれを許さない。笑わせるための場でアーサーは自身が笑ってしまい、その様子が滑稽なものとして笑われてしまう(笑われる道化、ナチュラルボーンとしての道化)。TV番組という処刑台へ招かれたアーサーは殺人を行い笑う(トーテム動物としての人間の殺戮)。彼の殺人は彼自身が笑ったことによって正当化され人々を暴動へと駆り立てる(謝肉祭を扇動するものとしての道化)

 

「笑われる道化」としてのアーサーはスタジオという処刑台の前で突如「全てを笑う者」へと変貌する。これは道化の二重性に対応する。前述のようにカーニバル空間における道化は滑稽なものであるのと同時に、その喧騒を周囲に感染させ拡大するカリスマ的支配者でもあるのだ。このように『ジョーカー』におけるアーサーは民俗学における道化と逐一対応する。

 

蛇足

中でも最も恐ろしい民俗学と『ジョーカー』の対応は「殺人」と「トーテム動物の殺戮と食肉」である。ここでは人間それ自身が「トーテム動物」として扱われカーニバル的な空間(ゴッサムシティの暴動)を形成する役を担っているという事実である。フロイトはトーテムの原型に「父殺し」という直接的な殺人を見る。遥か古代の人間が殺人を動物殺しというオブラートに包んだのに対して、『ジョーカー』は遥かに直接的に殺人を犠牲の供物として祭り上げる。ここに現代に醸成される暴力性を見ることは難しいことではないだろう。