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フィヒテの事行(Tathandlung)解説の試み 前半

 

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屋根裏部屋の上下にさらに部屋がある。ここはいったい何階なのか。底が知れなくなる、そんな話

 今回はドイツの哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1752~1814)の「事行」という概念について解説していこうと思います。「事行」とはフィヒテの知識学におけるもっとも重要な概念で、これが間違っていた場合「知を革新する」と謳った知識学はその根底を失ってしまう。それほど重要な概念だと考えてもらえると大体あっています。

 

ちなみに参考文献は初期知識学に当たる「全知識学の基礎」第一章のみなので非我との関係を知りたいという方のニーズに答えられる記事とはなっていない。

 

キーワードは自我、自同律などです。意識して読むと良いかもしれない。

 

 

  1. 事行(Tathandlung)の意味

 

 そもそも事行という日本語は全く聞きなれない、今文章を打っていても一発で変換されることはない。それもそのはず、この用語はフィヒテの造語であり、従って日本語に訳した場合も既存の単語ではなく事行という造語が新造される。

 

原語のTathandlungとは「tat」(事)+「handlung」(活動、行い)という単純な足し算によって作られた言葉であり、日本語訳もこの単純性に従って「事」+「行(い)」で事行となっている。今となっては他にどうしろという感がある。

 

 2.「AはAである」という命題

 

 確実な概念を見出すにはどうすればよいのか?もし初めに立てた命題が間違っていれば、それに続いた証明や概念は全て間違ってしまう。シャツのボタンの掛け違いという些細な間違いであれば取り返しが聞く。しかし、取り返しのつかない場合もある。例えば非ユークリッド幾何学の登場によって従来のユークリッド幾何学の立場が疑問視されるといった事は既存の知に大きな影響をもたらす。

 

そこでフィヒテは「AはAである」という確実な命題から始める。Aに入るものは何でもよい。「AはAである」とは即ち「A=A」である。この命題はだれもが認めるところである。なぜ?と聞かれても困る。この命題は何の根拠もなしに確実なものだからである。

 

この事実によって人は「AはAである」という端的な命題を肯定する能力を自分に帰属させる。

 

 3.「AはAである」と「Aがある」の違い

 

 「AはAである」という命題が正しいことは分かったが、この命題は「Aがある」ということとは異なる。人は「AはAである」という命題によって厳密には「もしAがあるならば、そうすればAはある」ということを定立する*1

 

例えばAの部分に「ユニコーン」という単語を入れてみる。するとユニコーンは現実に存在しないにもかかわらず「ユニコーンユニコーンである」と矛盾のない命題が成り立つ。つまり、そもそもユニコーン(A)があるのか無いのかということはこの命題では全く問題にされていない。

 

よって「AはAである」という命題は「もしAがあるならば、そうすればAはある」という命題に換言されうる。前半の文章(もしAがあるならば)と後半の文章(そうすればAはある)は「A=A」と同じように、同一の文章であるといえる。つまり、「もし」(went)と「そうすれば」(so)は連関がある(同じ意味を指す)ことが認められる。

 

このことは「AはAである」が何の根拠も持たないのと同様に端的に認められる。この連関をフィヒテはXと名づける。

 

 4.「A」はいかにあるのか

 

 「AはAである」という命題の中の連関をXと名づけたのは良いが結局Aがあるのか無いのか、ということについては何も定立されていない。ここで「いったいどのような制約のもとでAはあるのか」という疑問が生じる。フィヒテはこの疑問に3つの段階をもって答える。

 

ⅰ.「Xは少なくとも自我の中に、かつ自我によって定立されている」(p.93)

 

 ここで「自我」という概念がいささか唐突に登場する。自我はここでは「判断するもの」と定義される。確かに「A=A」ということを正しいと判断するためにはその主体、つまり「わたし」がまず存在しなければならない。つまり「A=A」やXとは自我があって初めて存在する、換言すれば自我の内に存在するということができる。

 

ⅱ.「Aは自我の中に、自我によってXと同じように定立されている」

 

 A内における連関を示したXが自我によって定立されるのならば、X内に含まれるAも同時に自我の中に定立される。

 

ⅲ.「もしAが自我の中に定立されているならば、そうすれば、Aは定立されている。あるいは――そうすれば、Aはある」

 

 Xは「AはAである」という命題において、先のA(主語)と後のA(述語)をつなぐ役割をしているという点で両方のAと関係する。両者はXによって定立されるので、自我の中で定立されるということになる。同時に述語のAは、主語のAが定立されているという制約のもとにおいて、端的に定立される。

 

以上のことを概略すると「Xは自我によって定立される」「AはXによって定立される」よって「Aは自我によって定立される」ということである。

 

力の方向を示す意図で不等号を用いると以下のようになる。

 

自我 > X > A

 

このことによって「もしAがあるならば、そうすればAはある」という命題がさらに詳細な意味を持つようになる。

 

つまり

 

「もしAが自我の中に定立されているのならば、そうすれば、Aは定立されている。あるいは—そうすれば、Aはある」(p.93)

 

となる。

 

頭が混乱してきたのでとりあえず投稿します。また編集します。

 

参考文献

フィヒテ全集 第四巻』哲書房

 

スクリーンショット

「The Beast Inside」(PCホラーゲーム)

*1:定立とは今後頻出する用語である。あることを正しいとする、くらいの意味で考えるとよい