Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

人間の条件としてのアウトプット その効用

f:id:AnnieAreYou:20181016195712j:plain

近頃本を読み、音楽を聴き、ゲームをプレイし、ともっぱらインプット作業にばかり精を出してきた。ゲームプレイがインプット的な作業なのかというのは難しいところではあるが、ゲームをプレイし感想を書くというルーティンを以前確立していた自分にとって、ゲームプレイはインプット(ゲーム体験を内に留めること)の一種として捉えられる。

 

この文章を書いているということはアウトプットにいそしんでいるということだが、なぜこのような面倒をしているのか、この記事では説明したい。つまり「アウトプットの効用」についてこの記事は説明しようと試みている。その効用というのは端的に「アウトプットは真にインプットを開始させる」と表すことができる。

 

注意したいのがアウトプットの成果物(例えばこのブログの記事)に対する他者からの反応(PV数やコメント)というのは重要ではない。例えば「ある素晴らしい本」を読んでその本について記事という形でアウトプットしたとしよう。ここには「この本の素晴らしさ」を広めるという社会貢献的な、もしくは自己の知識を顕示するという目的は決してない。これは以前ゲームについて書いていた時も、現在哲学について書いているときも変わっていない。

 

つまり人に読んでもらうことは目的にはない。おら、帰れ。こう言うと「閲覧者0人でも書き続ける異常者」と思われるかもしれないが「アウトプット」とは本来そこに観客がいようといまいと、その効用には影響のない行為なのである。

 

というのもインプットが単にある媒体から「知識」のみを受け取る作業であるのに対して、アウトプットとは得た知識を自分の言葉で反芻することで「知識」と「自己」を混ぜ合わせる行為だからである。この知識+自己という形式にアウトプットした成果物に付随する他者からのフィードバックというものは含まれない。

 

ではなぜアウトプットが真にインプットを開始させるのかということについて。孟子は言いました「本を読んで、それを真に受けるだけなら、読まない方がいい。」と。本というのはインプットの時点では至極客観的な情報、意見の集合に見えます。本になるだけあってその信頼性というのはネットのそれとは比較にならないほど高い。しかし、一度アウトプット(知識に自分の主観を混ぜる)を行うと次々と疑問がわいてきます。なぜなら作者の視点とは異なる自身の視点からの反芻となるからです。その疑問から自身が発展させていくべき「思索」が始まる、これこそアウトプットの効用であり、より高度なインプットへの扉なのです。

 

と自戒も込めた記事でした。単純なことを言うと文章というのは書き続けないと錆びるもので、書けなくなったら(=アウトプットできなくなったら)それは人間として何かの終わりなのではと感じるわけです。知識を蓄えるだけなら1GBにも満たない記憶媒体で事足りることですからね。