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神の現存在の論証 カント 第二部 第四考察 奇跡は存在するのか

カントは前回のスタンスと変わらず超自然的現象を認めようとしません。本音としては絶対に存在しないだろうと考えていると思うのですが、当時の宗教的事情が絡んで「奇跡はたまにしか存在しない」という微妙な言い回しになっています。

 

第四考察 世界の完全性を自然の秩序に従って判定することに対するわれわれの証明根拠

 

一、われわれの証明根拠から、超自然的なものによってよりも自然的秩序によってより有利に推論されることがら。

 

ここでカントは、奇跡つまり超自然的現象への否定的な評価を下している。なぜなら奇跡とは言ってしまえば自然法則に反するイレギュラーなものであり、神が用意した「完全」であるはずのこの世界にそんなものはそもそも必要がないからだ。しかし、カントは「奇跡が存在すること」の矛盾を主張したのであり、「奇跡よりも自然法則に沿ってなされた世界」がより良いものであると言っているわけではないことに注意したい。

 

非常にややこしいが、例えば「薪を用意する」というタスクがあったとする。カントはこのタスクの「尊さ」が「斧で割って作られたのか」または「全自動の機械で作られたのか」という「手段」の違いによっては変化しないと主張するのだ。重要なのは「薪を用意する」という目的のみである。現代的なコンテクストに沿わせた例を挙げてみるとすると「機械で印刷したものよりも手書きで書いた書類のほうがより価値が高い」ということは馬鹿げているとカントは主張する。自然的なもの、または人間的なものを盲目的に支持することは全くの間違いである。「薪を割る」「書類を書く」という目的それ自体に価値があるのであって、その手段をカントは重視しないのだ。

 

「このようにして、あるものが善であるのは、そのものが自然の秩序に従って生じるからではない。むしろ、自然の秩序は、この秩序によって実現された結果が善である限りにおいて善なのである」(p.160)。

 

次にカントは世界が自然法則(つまり物理的世界)に従っているのならば我々の自由の存在は一体どうなってしまうのかという疑問について考える。自然法則の中のイレギュラーな存在について否定的なカントは、自由意志のような「一見自然法則から外れるもの」もその実「自由選択の法則」に従っているとしている。

 

カントは毎年の婚姻率や死亡率を例にとって説明を試みる。個人が婚姻の時期や寿命の長さをある程度自分の決断で決められることをカントは認める。具体的には、ある地域での婚姻率や死亡率がおよそ一定であるというところに彼は法則性を発見するのだ。しかし、ここには現代の「ビッグデータ」にも存在する「個人の存在の無視」という問題を先取りしている。確かに全体的なデータを参照した我々人類に自由意志は存在しないように思える。しかし、もし一人が仮に完全に自由だったとしたらどうだろうか。いくら「本当の自由」が存在したとしても、その自由は多数派に飲み込まれて消えてしまう。

 

一方この文脈におけるカントの言う「自由」は我々が想定する「全てのものからの自由」とは異なる限定的なものに思える。彼は「自由であるようにふるまうこと」と「自由である」ことを意図的に分離しており、前者の意味での自由を確保しようと努めるのが彼の著作に広くみられる。この部分においても「自由は存在するがある法則に従っている」という一見矛盾した結論となっている。あくまで自然法則に反するものを排除するという指針が貫かれている。

 

二、われわれの証明根拠から、必然的な自然秩序および偶然的な自然秩序にとって好都合に推論されることがら。

 

カントは哲学において守られるべき規則があるという。それは「自然においてある結果の原因を探求するに際しては、自然の統一性をできるだけ保持するよう注意すべし」というものである(p.165)。というのもつまり無用で真新しい根拠を考えるのは後回しにして、既知の根拠からその結果を導出することを試みよ、ということである。なぜなら新たに考えられた原因というのはたいていの場合、論理的な飛躍がつきものであり不正確な根拠になりがちだからである。はるか昔、物体の上昇と落下は違う原因があると考えられていたが今は「重力」という概念で2つの帰結を導くことができる。

 

このカントの言明はなにも哲学に限った話ではない。推理小説の犯人を小説に登場していない人物であると考えるような不合理なことは普通だったら行わないだろう。

 

ここからカントは前述の規則に則ると解決できない問題があるとして、「植物や動物の組織構造が自然法則では説明しきれない」というものを挙げる。しかし、カントがこの論文を書いたのは1763年であり現代の知的状況とのギャップを考えれば解決が不可能であるとは言い切れないのではないか、と考えたので省略する。私は生物に対しては全く無学な人間なので下手なことは言わないでおく。

 

ただここでカントが言いたいことは「植物や動物には不要な回り道のような構造(特に生殖において)があるので自然法則に沿っていない。これを神が生物を作った時にだけ為したのか、それとも生殖時に毎回神が手伝っているのか、ということは我々には決めることができないし、どちらにしても答えられない」ということである。なぜなら神の力を前提とするという点において既に自然法則からは外れているからだ。自然法則から外れるということは論理の飛躍を認めることであり、このことは前述の規則に反するのである。