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神の現存在の論証 カント 第二部 第一、二考察 ア・ポステリオリな証明について

第二考察に入りました。ここからは抽象的な議論が若干抑えられ、より明確な日論が展開されていると思います(当社比)

 

第一考察 この考察で、ものの本質の中にみいだされる統一性から神の存在へと推論がア・ポステリオリにおこなわれる

 

一、空間の諸性質の場合における、ものの本質の多様性の統一。

 

第二部においてはアポステリオリな証明を行われる。アポステリオリな証明とは言い切ってしまえば科学的な方法からの証明である。ただし、カントはこの方法が哲学者としての視点から進められるという。空間の必然的属性の中には秩序と調和が支配し、多様の一致と統一が支配しているという事が、ここでは円の性質によって示される。

 

詳述は避けるが、円という一見単純なものから多くの知見がもたらされることがここでは示される。そして、この知見は円だけでなく円に対するあらゆるものの調和による。あらゆるものがまたあらゆるものに調和するという事は、全てのものの本質の最大根拠が存在するという事が推測される。

 

二、運動法則の場合における、ものの本質の多様性の統一。


前節と同様の主張を今度は運動法則から導き出す。カントは数学者フォン・モーベルチョイが多くの運動法則が等しく運動の最大限の経済化(効率の最大化)に沿っていることを証明したことを論拠に、運動法則による多様性の統一を示す。そしてこのような統一には最大根拠の存在が要請されるのである。

 

 

第二考察 神に対する万物の依存を道徳的依存と非道徳的依存に分割すること


「神に対するものの依存を神が自らの意志によってものの根拠となる場合、道徳的と呼び、それ以外の場合は、非道徳的と呼ぼう」(p150,151)。ここでものの「内部的可能性の究極的根拠」と「存在の根拠」という2つの根拠はそれぞれどちらに属するか分かるだろうか。「道徳的」というのは換言すれば、神の意志に基づく、と言うことができ、「非道徳的」とは神の意志に依拠しないという意味にとれる。

 

カントは前者が非道徳的であり、後者が道徳的であるとする。ものの内部的可能性はいわば、その存在の素材である。これらの素材は世界の全体に調和するような傾向を見せる(第二部第一考察参照)。しかし、この調和はカントからすれば神の思し召しなどでは決してなく、それゆえ非道徳的であるという事ができる。一般的にこの世界の調和は、神が予定調和的に構成したために必然的であるとされる。しかしカントは、必然的なものとは自由な意志に反するため、むしろ偶然的なものが自由に適うとした。その結果、神の意志に依存するものこそ偶然的であり、道徳的であるとしたのだ。

 

それではこの世界の調和的傾向は神の自由意志以外のいったい何によって根拠づけられるのか。カントはここで「賢明なる神の存在」と「神の賢明さ」を異なるものとして挙げる。この世界の調和は、自然の法則が一年ごとに変わったりしないように、常に一定の法則として維持されている。そして、この法則は、神が常にこの世界の手綱を握るように守っているのではなく、存在自体が調和の関係を保っていると言える。つまり、調和の維持とは神の意志という偶然性が介在しない必然的なものと言える。しかし、この世界の根拠が神であることには変わりがない。必然的であり、かつ神に関係するものが根拠として必要となるのだ。この条件にまさに適うのが「賢明なる神の存在」なのである。