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神の現存在の論証 カント 第一部 第一考察 存在について

『神の現存在の論証』は1763年のイヌマエル=カントによる論文。いわゆる批判前期にあたる産物であり、「啓蒙思想を超克した」として評価された一般的なカント像とは遠い位置にある。全体的に啓蒙思想の傾向が強い。この記事はその概説。

 

第一部

第一考察 存在一般について

 

カントは序論において、存在の概念について厳密な定義を与えないことを断る。それは存在という概念は人々が納得できるものをそれぞれ採用しても大きな問題は起こらないとするからであり、よって厳密な説明は不要であるとしている。しかし、カントはここで絶対的必然的な存在と偶然的な存在の区別は言及するに値するとする。ここでいう必然的な存在というのは所謂一般的な自然法則のことで、偶然的な存在というのは、そうである必要がなかったのにもかかわらず、神の配慮によってそのように創造されたものと考えればよい。また偶然的なものは一般的な自然法則に従わずにできているとされる。

 

一、存在はなんらかのものの述語または限定ではない

この命題は私たちの実生活における感覚に反するという点で奇妙に思われるかもしれないが確実な真理であるとカントは規定している。もし架空の人物(仮にジョンとしよう)に対してあらゆる述語(男である、バーテンダーをしている、髭が生えない)を加えたとしてみよう。「ジョンは山を割ることができる」。このような突飛のない述語をいくら与えたとしても、ジョンは「可能的な存在である」という点において矛盾を抱えない。このような点で、存在は述語ではない。

 

カントは日常生活において述語と存在を同一視することを否定しない。なぜなら大きな間違いを生むことはないし、有用だからである。しかし、神の存在証明においてこのような間違いを犯すことに関して、カントは注意を喚起している。このような誤解を用いた神の存在証明にはデカルトによるものがある。これらの間違いは人間の言語の不確実性が原因としてあげれられる。

 

二、存在は事物の絶対的定立であり、そのことによって全ての述語から区別されうる。そして述語それ自体は常にただ他の事物との関係においてのみ措定される。

ここでもカントは述語が存在ではないことを力説している。例えば私が「神は全能だ」という文章を、神の存在を認めない人に読ませるとする。彼は私が「神を全能であると考えていること」を難なく知ることができるだろう。つまり論理学的には、主語が存在しがたいものであっても正しいものとして措定されるのである。

 

三、存在の中にはたんなる可能性の中におけるよりも多くのものが存在するといえるか?

カントはこの問題に対して二つの観点から回答を与えることができるとする。一つはなにが措定されているのかという観点、一つがそれがどのような方法で措定されているのかという観点である。これをそれぞれ(a)(b)として説明する。

 

(a)「現存するもののうちには、たんなる可能的なもののうちにおけるより一層多くのものが措定されているとは言えない。なぜなら現存するもののすべての規定や述語はそのものの可能性においても見いだせるからである」(p.121)

 

(b)「もちろん現存することによって一層多くのものが措定される。もしこれらの規定や述語がたんなる可能性においてどのような仕方で措定されるかを考えてみると、それらはただ主語との関係においてのみ措定されるということを見いだしうるであろう」(p.121)

 

カントはこの微妙なニュアンスの違いを、前者は「存在するものの中には」と、後者は「存在するものにおいて」という風に表現している。大胆に2つの観点の違いを表すとすると、それぞれ「論理的存在」と「実質的(実存的)存在」ということができる。論理的存在は未だ存在していないので、好きなように(ただし排中律、矛盾率には従って)述語を加えることが可能である。よって存在よりも存在の可能性(述語)が多いといえるのだ。

 

一方、実質的存在は主語が実際に存在しているので可能性(述語)を好き勝手に加えるわけにはいかない。ここで、なぜ可能性と比べて存在の中に「多く」のものがあると言えるのか、という疑問が生じる。これは実例を用いれば簡単な話で「三角形は内角の和が180度である」という文章があったとしよう。もし主語の「三角形」が未だ存在しなかったならば(a)のように主語に無限の述語を加えられるだろう。しかし、主語が現存する今では上記の文章の意味は以下のように解することができる。

 

「三角形(三辺、囲まれた空間、3つの角がある)の内角の和は180度である」。ここで明らかなように実存する主語は述語(可能性)に対してより多くのものを持つと言えるのだ。ここでカントはヴォルフの一種の汎論理主義との決別を図っている。ヴォルフにとって論理的存在と実質的存在とは同一であり、論理学の法則は実質的法則と一致するという前提があった。第一考察では伝統的論理学への批判を扱っている。このようなカントの論理学への不信は、当時のニュートン力学の発展またはヒュームの影響に端を発したものとして理解されている。第二考察においても同様の批判が加えられ、これまでの神の存在証明批判、そして新たな神の存在証明へと収束していく。

 

参考文献:「カント全集 第二巻 理想社」