ゲームに飽きたという事実
幼稚園児の頃からゲームに親しんでいた。今では全く名前も思い出せないし検索してもなかなか出てこない本のようにめくれる性質を持ったゲーム機で遊んだウルトラマンのゲームが最も古い記憶である(対戦モードがあってやたら怪獣が弱く設定されている)
そこから数えると十数年ゲームを遊び続けてきた。高校生になるとゲーミングPCという底なし沼に嵌った。スクリーンショットが撮れるゲームプレイの作品化という一面にいたく惹かれ、それをさらすことを目的にブログを始めた。
その頃がゲームに夢中になったピークでありゲームのない人生などおよそ考えられなかったし、同じくそれに飽きることも考えられなかった。
進化し続けるグラフィック、他媒体では表現できない能動的な参加が不可避という性質、素晴らしい多様性。こんな善いものは他にないと思った。
しかし急激にその熱は冷めていった。大学に入学して時間を持て余して気がついた。ゲームが楽しかったのは日常生活の多くが占める勉学がつまらなかったせいなのだと。勉学という能動的に為さざるを得ないものに変わってゲームプレイを摂取していたのだと。
確かに完全にゲームをやめたわけではないが習慣と呼べるものはほぼ無くなっていった。一週間もPCに向かわないことはざらである。
それに代わって楽しいと思えることは高校の頃にこれだけは積極的に学べたと言える「哲学」であった。こんなに非生産的で生産的な趣味、勉学、暇つぶしは他にない。
考えても考えても終わりがないし進んでいるかも正直保証はない。しかし他人の意見を理解しそれに批判精神を向けた時に新たな発想、思想が発現するのはこの上なく楽しい。
いつかこの哲学に飽きる時も来るのだろうか?という問いに今は自信を持って答えられる。YESであると。しかし突き詰めてみたいと思うのもまた現在の私の気持ちである。私が哲学に飽きるその前に。