Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

風呂にスマートフォンを持ち込まないように

今回の記事は半ば日記のようなジャンルに分類されるので気楽に読んでもらいたい。IQ80以上の風呂に入る動物を対象として書いている。

 

みなさん(IQ80以上)は風呂に入る際になにかを持ち込むでしょうか?これはタオルやシャンプーといった風呂本来の目的に沿った道具以外を指します。

 

僕はいつもスマートフォンを持ち込みネットサーフィンをしたり、カラオケ大会を開いたりしています。何気なくやってきたこの行為、比較的に一般的なことだと思うのですが、このことの重大な欠陥を今日発見しました。

 

たまたま気分でスマホを投げ置き風呂に入りました。浴槽に入りホッと一息つくと目の前の景色に異様な感覚を覚えました。その景色とは何の変哲も無い自分の裸体でした。

 

何をおかしなことを、と思われるかもしれません。たしかに自分の裸体に違和感を覚えることなど普通はおかしいことです。しかし僕の場合、裸になるシーンは風呂の時くらいで、その風呂の時間はスマホに視界が奪われるので無理もありません。

 

この本来「見慣れたはずのもの」が「未知のもの」に感じるという現象にとんでもない違和感と得体の知れない恐怖を感じました。

 

風呂に上がった後は大きな鏡の前で自分の顔、胸、腹、腰を順々に触り肉の付き具合と骨の箇所を確認するという人間の体を乗っ取ったばかりの寄生生物のような動きをしていました。

 

哲学的な思考をいくら働かせてもその基体は「考える我」であり、これまたその基体は「肉体」です。思考に行き詰まった時には「精神」などという抽象的で存在が不明確な概念よりも先に自分の体を観察してみましょう。そうすれば何か得るところがあるかもしれません、っていうそういう話でしたよね?たぶん

善の概念との一致における美の概念

今記事は西田幾多郎の『善の研究』の第三編 善 第9章 善(活動説)において言及されている美の概念について述べる。

 

ここでは倫理学説における善の見解が問題とされている。倫理学説には大きなジャンルとして他律的倫理学説と自律的倫理学説がある。

 

他律的倫理学説は権力や神などの人間以外のものから善悪の標準が与えられるというもの(権力は大体、神が根拠とされているので同じことだと思うが)。

 

そして、自律的倫理学説はその名の通り人間が善悪の標準を携えているというものである。

 

他律的倫理学説は西田によって簡単に退けられ、次に自律的倫理学説の三種が説明される。理性を基準とする合理説(主知説)、苦楽の感情を基準とする快楽説、意志の活動を基準とする活動説である。

 

西田のとる立場は3つ目の活動説である。まず自己に基準を置くという自律的倫理学説を取る理由としては、善悪の基準を外(神)に求めても説明がつかないからである。

 

具体例を挙げる。「神が仰せられたので従う。しかし、それは何のためか。従うことで得られる自己の損得のためではないか」。結局善悪の基準は自己に帰ってきてしまうのである。

 

ではなぜ活動説をとるのか。それは、西田の『善の研究』を通して語られる意志の根本的な統一性にある。このことは別の記事(http://annieareyou.hatenablog.com/entry/2017/10/11/004331)において、意志による因果律の否定(優越)という形で書いた。

 

そして善とは「我々の内面的欲求すなわち理想の実現、換言すれば、意志の発展完成であるということとなる」と述べられる。(かなり端折った)

 

つまり善とは自己実現のことであると表すことができる。ここで善の概念は美の概念と近接してくるという。「美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜられるるのである」。

 

さらに善の概念は実存の概念とも一致するという。「一つの者の発展完成というのがすべて実存成立の根本的形式であってー」。つまるところ、真善美の形式に見事に当てはまるのである。

 

一旦ここで西田の倫理学説の話は終わりである。この記事のテーマはあくまで美学である。

 

ここでは述語となっている「美の概念」だが個人的な「美学と哲学って何の関係があるんだ?」という興味からすれば、美の概念の「実存」や「善」といった意外な繋がりに驚く。

 

以前より「美学」は、何か元となるものを必要とするという性質より、単体ではその重要性を見いだし難く、また実際に重要ではないと考えていた。しかし今回の実存や善との「一致」という見解は美学に大きな説得力を与えることとなった。

 

しかし、それにしても哲学のコンテクストの中にある美学の難解さは理解できない。美学への道は続く。

哲学が狭い狭い独りよがりな引きこもりである理由

哲学の言説というのはしばしば現実の「正しさ」とは食い違う。

 

哲学的「正しさ」を探求することはヴァニラ状態の人間にはとても難しい。それは1つの原因に集約される。「前提」が共有できていないのだ。これは哲学史の全てを学ぼうと考え、稚拙ながら実行している僕の経験による言説である。

 

哲学の言説というのは一見奇妙で親しみにくいものであるのは間違いない。それらが凝縮された哲学的名言というのは、教科書レベルの幼稚な説明では理解できないし、趣旨も全く取り違えているものが多い。

 

しかし、どれだけ意味不明な思想でもその時代と著者のエッセンスを誠実に学べば、ただの狂人であった哲学者もその時代に抗いまた同調するひとりの人間として理解できる。ともかく現代の哲学に関する情報というのはライフハック的な表面的で根拠のないアドバイスにとどまっている。

 

そもそも「論理」の正当性を前面に押し出す彼らが文脈を無視した意味不明なことを言うというのは考えにくい。文脈を無視しているのは他でもない我ら一般人なのである。

 

 

どこで一般人と哲学者という極端な峻別がなされたのであろう。例えばカントの思想を語るに当たってカントの思想だけを把握するのは一般人である。彼らは定言命法や現象界と叡智界の二世界論という断片的な情報しか得ない。哲学者はカントの思想が発生した背景(ヒューム、デカルト的世界観、経験論)といういわば文脈を読み取ってカントを理解する。聖書の「光あれ」だけを抜き取って神を信仰するものがあろうか?それはただの狂人である。

 

以上哲学者がどうにも理解されない理由を短いながらも述べた。現実的な話をすると一般人に哲学が理解されることはない。そんな時間はないからだ。彼らは普段生き永らえるために哲学とは無縁な労働に勤しみ、休日はSNSへの対応に忙しいからだ。

 

しかし、そんな一般人に僕は疑問しか持たない。「何のために生きているのか?」。この崇高で絶対的な問いから逃げているとしか思えないのだ。「生きるために生きる」というトートロジーを正当化するためにも哲学は必ず必要となる。先ほどあげたカントは「哲学は学べず、哲学することだけが学べる」という言葉を残した。

 

しかし、哲学をすることには現実的に哲学を学ぶ必要があって、それがなければその思考は哲学ではなくただの妄言になってしまう。

 

タイトルに答える形で本稿を纏めるならば「理解しようとされないから理解されない」に尽きる。極めて自明だが、もったいのない、そして僕には理解ができない考え方である。

美術と哲学についてメモ

教授の研究室に哲学の書物に紛れて美学や藝術の書物が並んでいた。さも当然のように哲学書の隣に居座るそれらは無視することが難しいほどの数と厚さを誇っていた。

 

当然、興味を抑えられず教授にその関連性を聞いてみるといつものように曖昧な返事。哲学者は本来、作家でも教師でもないので説明が下手なのには頷けるが、この人よく教授になれたな、という感想は正直なところである。

 

そこで中古本市などで、その関連書物を探してみたところ発見。『現代思想』(発刊年は失念、確認し次第更新、1984年3月号でした)である。嬉々として読み漁るも訳がわからない。そもそも文脈が意味不明でいったい誰に向けて書いているのか想像することも難しい。f:id:AnnieAreYou:20171211201504j:image

 

前置きが長くなったが、この記事は藝術と哲学の関連性を確認するために私が集めた知識をまとめる漸次的に更新されるものである。ちなみにこういったタイプの記事が続いた試しはない。

 

なるべく先ほど挙げた雑誌のように文脈が不明なものにはしたくないので、分からない点があれば指摘していただけるとありがたい。

 

(2017/12/11)

シャフツベリーとディドロにみる哲学と美学の繋がり。

 

まずそれは美学が自然を描くという前提にある。自然とは秩序あるもので、人間の道徳にも通じると考えられている。それゆえ、美学を考察することは道徳について考察することと同義とまではいかないまでも共通する事柄と考えられる。

 

ここで「自然」という概念に疑問が投げかけられる。ディドロは生物と無機物の関係が流動的であることを例で示す。「石でさえも風化して土に返ると、そこから植物が生える。植物は食べられ動物の一部となる」。

 

また美の相対性にも疑問符がつく。美が相対的であると道徳も相対的ということになってしまう。『絵画論』においてディドロは風車が最も効率よく回るのは最も美しく回る時と一致するという「真善美」(ここでいう善は有用性という意味)の一致を証明している。かなり苦しい。

 

劇という藝術の一分野は「現実では悪人である人も、劇中の悪人を非難する」ということから「美徳の学校」という形で道徳との繋がりを持つ、と主張される。(『哲学の歴史 6巻』を主に参照。)

 

まとめ:

ここでは「自然」という秩序そのものを写し取るものとしての藝術が説明してあります。ザックリ言うと倫理学と藝術(自然)の共通が主張されています。ディドロやらシャフツベリー自体には詳しく調べる目的がない場合を除き留意しなくてもよいです。ではまた。

働きたくない人はみな哲学者らしい

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年齢を重ねるごとに経済的な自立という課題が迫り、それに伴う労働の必要性を感じつつ外食しています。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

とにかく僕は働くことに否定的である。死ぬほど簡単で時給もよく、さらに先輩の紹介で入ったという三重の甘えを備えたバイトを4ヶ月で「時間がもったいない」という理由でやめてしまった。その先輩とは今も仲が良い(あっそ)

 

そんなときゼミのような授業で各々の結婚観を質問された。自分を殺してでも守りたい人との結婚、自分を高められるような結婚、と高尚で経済的な必要性を度外視した現代的で至高な結婚観が語られる。

 

そんな中、ひとり「養ってくれる人〜」とアホヅラでほざくKY(死語)が僕でした。この先生にかかると本音しか言えなくなるのだ。

 

当然聴衆からは白い目で見られ、今まで築いた好青年イメージが崩れるのを感じる。しかし先生(宗教哲学専攻)だけは「〇〇くんは真の哲学者だ!僕もそうだったよ!」と静まり返った教室で一人称賛を送る。全然嬉しくない。

 

ここで思った。「働きたくないのって哲学者だけなの?」と。僕は親に働きたくない理由を説明するときに「目的なき世界観」という壮大な論理をぶつけていた。

 

つまり戦後は社会全体の成長という明確な指標がありその波に乗れば人生の目的は与えられるが現代はそれがない、という世代のすべての人間を巻き込んだ迷惑な論理である。(ちなみに戦前は戦争、さらにその前は神もしくは来世、あるいは極楽が目的)

 

つまり僕の世代、全てが労働に人生の目的を見出していないと考えていたのだ。できれば働きたくない。ベーシックインカムに夢を見ている。AIが多くの職業を駆逐してくれることを望んでいる。

 

宝くじが当たったら上司に唾を吐き恨みの言葉を吐き失禁したのち速やかに退職したい、と皆が考えていると思っていた。

 

先生の「哲学者」という主語にすべての確信が無に帰した。というかみなさん実際どうなんすか?

因果律の否定について

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 まどマギ12話のまどかの願いは結果的に「因果律そのものに対する反逆だ」とQBに言わせせしめました。(界隈では「因果」と「因果の糸」という用語が異なる意味で飛び交っているようです。哲学用語じみてて面白いです。)

 

しかし、京都学派で有名な西田幾多郎は哲学的な視点から「因果律」に対する反逆を論じています。

 

西田の哲学は「体とは別に心がある」という発想を切り捨てる大胆なものです。つまり体も心も本当は実在しないと言うのです。では何が実在するのか?それは「意識」です。意識のみが唯一存在するものと考えた時、自明と思われる「因果律」は後手に回ります。

 

この説明だけでは意味不明なので簡単な例を出します。

 

1、物体Aが物体Bにぶつかる。

2、物体Aが動く。

 

この繰り返しを意識は認識し物体Aが動くのには物体Bという原因があるという「因果律」なる仮定を形成します。つまり、意識があって初めて「因果律」という仮定が生まれるのです。

 

さらに、因果律を世界形成のシステムに組み込むことは原因の無限遡求という不具合を生じさせます。不具合を含む原理は不完全であると断じられます。この無限遡求を解消する手段として西洋においては「神」の概念が導入されます。

 

一方、西田は先ほどの「意識」を原点としておきます。「意識」においては「因果律」がまだ仮定されていないので無限遡求を断ち切れるというわけです。

 

神を必要としない世界形成論というのはいかにも日本人らしい考え方ですね。

 

結論:因果律よりも意識の方が先にあり、また因果律には不備があるので因果律は否定が可能。

能動性の善悪判断に見る相対主義の虚しさ

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みなさんは「能動的」という語を見たときどのような印象を思い浮かべるでしょうか?「自主的」「アウトドア」「東京事変の名曲」などポジティブな語が浮かぶかと思います。そもそも能動的の英訳がPositiveだったりActiveだったりするので自明かと思ったかもしれません。しかし我々はその自覚がないだけで能動性を嫌悪している瞬間があります。

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