前回は哲学の発生という原初的なテーマを見ていきました。文字の発生によって生まれた自我が知的好奇心を宿す。それが哲学の発生でした。
今回はテンポよくミレトス学派の自然哲学者たちを見ていきましょう。彼らはミレトス学派とは別の分類であるイオニア学派にもあたる人物たちです。ミレトス学派がミレトス出身の学派ならばイオニア学派は万物の根源(アルケー)を規定して世界を考えた学派となります。
続きを読む人と議論をするときに気をつけるべきことは多くある。感情的になってはいけないとか、相手の意見を聞くとかそういったことである。
続きを読む近い将来、私たちの生活の周りには今よりも随分高度なAIにあふれていると予想されます。「高品質」と表現しなかったのもしかしたら彼らに私たちと同じもしくは、それ以下の、もしくは最低限?の人権が与えられているかもしれないからです。
続きを読む現在進行形で学んでいる哲学史をキリのよい個所まで短くまとめて記事にしてみようと思います。説明を端折っている部分が殆どなので、もっと詳しく知りたい方は哲学の歴史(中央公論新社)シリーズを参照してください。また用語は岩波哲学・思想辞典を参照しています。哲学史を学ぶのによい書籍があるよ!という方はぜひご教授ください。
続きを読む遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。この細々としたブログもみてくれている、みなさんがあって成り立つものであります。
ですので今年もよろしくお願いします。昨年見てくれた方は本当にありがとうございました。
さて今年の思索の方向ですがやはり「唯物論の否定」という事になりそうです。というのも僕の思索の始まりは唯物論による「自由意志なんてないんだよ」という主張を否定したいという意欲に始まっているからです。
この意欲自体が極めて人間的な性質に基づいていると言えます。果たして自由は本当にないのか、本当にあるのか、証明はできないが成り立つためには必要なのか。
少し話は変わりますが、この「唯物論」の対岸にある考えを「観念論」と言います。この2つの極端な一元論を否定し反省して組み立てた「現象学」という現代哲学があります。
現在これを勉強中ですが、なかなかどうして説得力があるもので、どちらの立場も看破しているようで凄いです。
今年はこの現象学を新たな出発点として思索を深めていきたいと思います。もちろんソクラテス以前の自然哲学者から現代までのおさらいも同時進行に学んで行きたいと思います。
よろしくお願いします。
AならばB(例:火ならば熱い)が成立する根拠とは即ち積み重なった習慣である。
100回火に手を近づけて熱いことを確認したとしても101回目には冷たく感じる可能性があることを否定できない。
しかしこの共通認識(習慣)を共有して私たちの生活、存在は成り立っている。
「心臓を突き刺せば人間は死ぬ」という共通認識が無ければ我々の生存は保障されない。
存在の証明はできないが、その存在が前提にないと、この秩序だった(ように見える)生活は成り立ち得ない。
この論法でカントは自由意志の存在を規定した。
しかしこの「共通認識」とは決して証明され得ないということはカントの論法にも組み込まれており(『物自体』の正しい認識の否定)言いかえれば「人間の勘違い」とすることもできてしまう。
そんな「勘違い」を真理と信じ生きていくしかない。そんな悲しい存在が人間なのか?この悲痛な問いに無慈悲にも「YES」と答え結論付けたのがカントのアンチノミーであった。
※ポジティブな受け取り方をすれば、人間には人間にとっての真理があり理性の性能はそれ以上を求めることができないから、しょうがないよ。となる。