現在進行形で学んでいる哲学史をキリのよい個所まで短くまとめて記事にしてみようと思います。説明を端折っている部分が殆どなので、もっと詳しく知りたい方は哲学の歴史(中央公論新社)シリーズを参照してください。また用語は岩波哲学・思想辞典を参照しています。哲学史を学ぶのによい書籍があるよ!という方はぜひご教授ください。
続きを読むあけました
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。この細々としたブログもみてくれている、みなさんがあって成り立つものであります。
ですので今年もよろしくお願いします。昨年見てくれた方は本当にありがとうございました。
さて今年の思索の方向ですがやはり「唯物論の否定」という事になりそうです。というのも僕の思索の始まりは唯物論による「自由意志なんてないんだよ」という主張を否定したいという意欲に始まっているからです。
この意欲自体が極めて人間的な性質に基づいていると言えます。果たして自由は本当にないのか、本当にあるのか、証明はできないが成り立つためには必要なのか。
少し話は変わりますが、この「唯物論」の対岸にある考えを「観念論」と言います。この2つの極端な一元論を否定し反省して組み立てた「現象学」という現代哲学があります。
現在これを勉強中ですが、なかなかどうして説得力があるもので、どちらの立場も看破しているようで凄いです。
今年はこの現象学を新たな出発点として思索を深めていきたいと思います。もちろんソクラテス以前の自然哲学者から現代までのおさらいも同時進行に学んで行きたいと思います。
よろしくお願いします。
真理と習慣の構造の類似性 てか同じ?
AならばB(例:火ならば熱い)が成立する根拠とは即ち積み重なった習慣である。
100回火に手を近づけて熱いことを確認したとしても101回目には冷たく感じる可能性があることを否定できない。
しかしこの共通認識(習慣)を共有して私たちの生活、存在は成り立っている。
「心臓を突き刺せば人間は死ぬ」という共通認識が無ければ我々の生存は保障されない。
存在の証明はできないが、その存在が前提にないと、この秩序だった(ように見える)生活は成り立ち得ない。
この論法でカントは自由意志の存在を規定した。
しかしこの「共通認識」とは決して証明され得ないということはカントの論法にも組み込まれており(『物自体』の正しい認識の否定)言いかえれば「人間の勘違い」とすることもできてしまう。
そんな「勘違い」を真理と信じ生きていくしかない。そんな悲しい存在が人間なのか?この悲痛な問いに無慈悲にも「YES」と答え結論付けたのがカントのアンチノミーであった。
※ポジティブな受け取り方をすれば、人間には人間にとっての真理があり理性の性能はそれ以上を求めることができないから、しょうがないよ。となる。
最近考えたこと メモ帳 2
・この世は正しいものだけが正しいわけではない
仮に唯物論が理論的に何の反論の余地もなく万人がそれに納得するとする。しかし日常生活の言説にはその思考方法、原理が適用されることはない。
それはどんなに理論的に正しい物があっても我々はそれを本能的に正しいことだとは思えないからだ。
「そして我々が正しいと思うことが実際に正しいのか」ということは把握しようがないので正しさの純度は理論よりも直感に委ねられる。
ー哲学的思考との折り合いについて
・デカルトの神の証明にたいする反論
デカルト:
不完全なもの<完全なもの
不完全なもの(人間)は完全なもの(神)を作れない。
反論:
だが人間は道具を用いることでその能力を超えたものを作ることができる。
例:AI
僕たちは今「不自然状態」にいるのか?
自然状態は、政治哲学上の用語としては、政治体を構成しないバラバラの人間達が生むであろう、人間間の様子である。
自然状態とは国家の権威を神様に授けられたと理論的に根拠づける「王権神授説」を引きずり降ろす為に使われた概念である。つまり国家の権力の基盤は胡散臭い神じゃなくて昔の人間一人一人の了解だよ、ということ。
この概念を知って自分はなんとも言えない違和感を感じた。
自然状態には幾つもの説があるが(有名なのは「万人の万人に対する闘争」とか)今回は個別的に問題にすることはない。
問題なのはその「自然状態」が僕たちが生きている状態とは切り離されて考えられていることだ。つまり自然状態からしてみれば現在は「不自然状態」と言えてしまう。
政治哲学を知った人からみれば「なにをバカなことを。そういうわけじゃなく便宜的な概念として一時的な状態を切り取った(設定した)に過ぎないよ。」と指摘されるかもしれない。
だがある極端な立場からこの問題をみれば状態は切り離して考えるべきものではないように思える。
自然状態という概念はどこか現代の人間と過去の人間を別物のように ー誤解を恐れずに言えば過去の人間をまるで下等な動物のようにー 扱う立場にあるように思えてならない。
唯物論の立場に従えば過去の人間の未発達な状態も、その状態から秩序に守られて暮らす社会を形成した状態への移行も極めて「自然な状態」ではないかと考える。
この問題はたとえ便宜的であっても、時代という流動的な概念へ名称を付することが厳密には不可能であることを暗示している。
流れには時間と同様に始まりも終わりも定義づけることができない。ただ流れていた時と、今流れている時と、これから流れるであろう時が一直線にあるだけなのだから。
だからある状態が「自然」ならば全ての時間は「自然」であるとも言えてしまうのだ。
ここで示した極端な立場というのは唯物論(あるいは決定論)であったりカントのアンチノミー(理性の限界)だったりすることを書き置いておく。政治哲学的には不毛な議論極まりない。
「誕生日おめでとう」に対する違和感 人間の記号化
友人の誕生日が来るたびに「誕生日おめでとう」、先輩には「お誕生日おめでとうございます」、ネコには「にゃにゃにゃにゃにゃ〜❤︎」。呪文のように繰り返している自分に気がついた時、それに付随してある違和感にも気がついた。
「別にその日、それ自体を祝ってる訳ではなくないか?」と。
「やあミスター誕生日。おめでとう」じゃあないだろう、と。
「誕生日おめでとう」に込められる意味には意見が分かれるとは思う。だが少なくとも何もしなくても自然のままに流れ、その結果たどり着いた「その日」を賞賛し祝っている訳ではなかろう。
つまり「誕生日おめでとう」ではなく
「誕生おめでとう」または
「誕生したその日を反芻(はんすう)した上で、おめでとう」または
「よくここまで生き残ったな。おめでとう」というのが正しい日本語と言える。何だかセリフの視点が神っぽい。
こんな意見を発すれば「んなことみんな分かってる。誰もその日自体を相手取ってる訳ないだろう。」という反応も大いにある。そりゃそうだ。
しかしこの疑問がLINEやTwitterに端を発していたと考えると事情が違ってくる。
本人を正面に据えない文面だけの「誕生日おめでとう」これは本来の「その日自体ではなく本人を対象とする」という目的を疑わせるには十分な欠陥がある。
つまり何が言いたいかというとSNS上での「誕生日おめでとう」ってどこか人間を記号化してみてるんじゃね?そしてそれも字面に現れちゃってね?というフワフワしたことである。
最初に述べたような「誕生日の擬人化」ならまだマシだがむしろ「人間の記号化」という問題意識に近い。
この結論が「SNS上のアカウントを人格と捉えることの抵抗感」に寄っていることは否定できない。
だが同時にSNSの問題点は我々人間の文面における言語機能の不完全さを浮き彫りにする。
個人的にも文字コミュニケーションの不完全さには大いに興味があり今後考えていきたい一つのテーマであるので書き置いておく。