Re Another Life

アニメや音楽に始まり哲学など

僕たちは今「不自然状態」にいるのか?

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自然状態は、政治哲学上の用語としては、政治体を構成しないバラバラの人間達が生むであろう、人間間の様子である。

 

自然状態とは国家の権威を神様に授けられたと理論的に根拠づける「王権神授説」を引きずり降ろす為に使われた概念である。つまり国家の権力の基盤は胡散臭い神じゃなくて昔の人間一人一人の了解だよ、ということ。

 

この概念を知って自分はなんとも言えない違和感を感じた。

 

自然状態には幾つもの説があるが(有名なのは「万人の万人に対する闘争」とか)今回は個別的に問題にすることはない。

 

問題なのはその「自然状態」が僕たちが生きている状態とは切り離されて考えられていることだ。つまり自然状態からしてみれば現在は「不自然状態」と言えてしまう。

 

政治哲学を知った人からみれば「なにをバカなことを。そういうわけじゃなく便宜的な概念として一時的な状態を切り取った(設定した)に過ぎないよ。」と指摘されるかもしれない。

 

だがある極端な立場からこの問題をみれば状態は切り離して考えるべきものではないように思える。

 

自然状態という概念はどこか現代の人間と過去の人間を別物のように ー誤解を恐れずに言えば過去の人間をまるで下等な動物のようにー 扱う立場にあるように思えてならない。

 

唯物論の立場に従えば過去の人間の未発達な状態も、その状態から秩序に守られて暮らす社会を形成した状態への移行も極めて「自然な状態」ではないかと考える。

 

この問題はたとえ便宜的であっても、時代という流動的な概念へ名称を付することが厳密には不可能であることを暗示している。

 

流れには時間と同様に始まりも終わりも定義づけることができない。ただ流れていた時と、今流れている時と、これから流れるであろう時が一直線にあるだけなのだから。

 

だからある状態が「自然」ならば全ての時間は「自然」であるとも言えてしまうのだ。

 

ここで示した極端な立場というのは唯物論(あるいは決定論)であったりカントのアンチノミー(理性の限界)だったりすることを書き置いておく。政治哲学的には不毛な議論極まりない。

「誕生日おめでとう」に対する違和感 人間の記号化

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友人の誕生日が来るたびに「誕生日おめでとう」、先輩には「お誕生日おめでとうございます」、ネコには「にゃにゃにゃにゃにゃ〜❤︎」。呪文のように繰り返している自分に気がついた時、それに付随してある違和感にも気がついた。

 

「別にその日、それ自体を祝ってる訳ではなくないか?」と。

 

「やあミスター誕生日。おめでとう」じゃあないだろう、と。

 

「誕生日おめでとう」に込められる意味には意見が分かれるとは思う。だが少なくとも何もしなくても自然のままに流れ、その結果たどり着いた「その日」を賞賛し祝っている訳ではなかろう。

 

つまり「誕生日おめでとう」ではなく

 

「誕生おめでとう」または

 

「誕生したその日を反芻(はんすう)した上で、おめでとう」または

 

「よくここまで生き残ったな。おめでとう」というのが正しい日本語と言える。何だかセリフの視点が神っぽい。

 

こんな意見を発すれば「んなことみんな分かってる。誰もその日自体を相手取ってる訳ないだろう。」という反応も大いにある。そりゃそうだ。

 

しかしこの疑問がLINEやTwitterに端を発していたと考えると事情が違ってくる。

 

本人を正面に据えない文面だけの「誕生日おめでとう」これは本来の「その日自体ではなく本人を対象とする」という目的を疑わせるには十分な欠陥がある。

 

つまり何が言いたいかというとSNS上での「誕生日おめでとう」ってどこか人間を記号化してみてるんじゃね?そしてそれも字面に現れちゃってね?というフワフワしたことである。

 

最初に述べたような「誕生日の擬人化」ならまだマシだがむしろ「人間の記号化」という問題意識に近い。

 

この結論が「SNS上のアカウントを人格と捉えることの抵抗感」に寄っていることは否定できない。

 

だが同時にSNSの問題点は我々人間の文面における言語機能の不完全さを浮き彫りにする。

 

個人的にも文字コミュニケーションの不完全さには大いに興味があり今後考えていきたい一つのテーマであるので書き置いておく。

哲学的思考との折り合い

哲学的思考を突き詰めると僕らはとんでもない結論にたどり着く。

 

「僕らは何も知り得ない」

 

「僕らは存在するのか、同じ色を赤と認識できているのか、自由意志はあるのか、そして真理はあるのか」

 

いずれも全て知り得ない。

 

そんな不毛な状態で我々は日常生活を送れるだろうか?この事実を実感として理解すれば人間は恐らく壊れてしまうだろう。

 

朝起きれば「これは現実なのだろうか?」と疑い朝食を食べても「この卵は実際に存在するのだろうか?」と疑い、ニュースで殺人犯が写れば「要因を突き詰めれば本当の原因となったのは原初状態であり、それを生み出したのはいったい…」と神の存在まで持ち込んでの探求が始まる。

 

まるでフレーム問題に陥ったロボットのように動くことができなくなるだろう。

 

しかし、そんな原初的な哲学の狂信者でない限り我々も過去の哲学者も普通に生活できている。

 

これは哲学の効力を認めていないことの証明になるのだろうか?それとも人間には生まれ持った生得的な常識があるとでもいうのだろうか?環境がそれを異常だと認めさせないのだろうか?

 

原初哲学と同じく、この問いへの答えは見つからない。

 

しかし原理的な解決策を講じることには意義がありそうだ。もともとこの問題提起はそういった厄介な哲学的思考方法が僕の生活を侵食してきたという問題に端を発したものである。

 

いやあマイッチングーとTwitterで病み宣言してもいいんだが、なんか恥ずかしいし、みっともないのでここで問題提起をするのに収めておきたい。

最近考えたこと メモ帳

・胃の調子が悪いと体の調子が悪くなるのと同様に、心持が悪いと体の調子が悪くなるのは当然といえる。

心身二元論の否定。唯物論への傾倒。

 

・1つのものに1つの真理しか存在しないという発想の否定。「もの」は複数の何かで構成されており決して単一のものになり得ない。真理も同じで…

真理の追究への半ばあきらめ。真理の不存在の根拠探し。

 

・「予言は成立し得るか?」という観点。予言が発生した時点で条件が異なってしまう世界。

むかし「ぬ~べ~」でこんな話がありましたね。

 

・自由意志が存在していると考える根拠。「歯を磨こう」と考えていたにもかかわらずトイレへ入ってしまったとき。行動の生体反応に対する優位性から存在が推定される思考と行動の分裂。

マークトウェイン 機械論的人間観

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「トムソーヤの冒険」で知られる楽観主義のアメリカ人作家マークトウェインは晩年にとんでもない作品を執筆する。

 

「人間とは何か?」である。

 

その中でマークトウェインは老人と青年の対話という形で人間をこう定義づける。

 

「人間とは自身の幸福をただただ求め続ける機械である。車がその作りに縛られて走ることしかできないように我々人間はそのように生きることしかできないのだ。」と。

 

私たちは「じゃあ自己犠牲ってのはどうなるんだ?自分を犠牲にして他者を助ける。自己の幸福はどこに行ってしまったんだよ?」と当然反論することができる。

 

しかしマークトウェインは言う。「もしその自己犠牲をしなかったら君はどうなっていただろう?あの時私が助けなかったばかりに、あの人はあんな結果になってしまった、と何日間もそのことで悩み続け結果助けた場合よりも少ない幸福を受け取るのではないだろうか?」

 

つまり「人間はその場その場で最も自分が幸福になるであろう行動を選んでいるだけであって、そこに人間の自由は存在しないというのだ」ということになる。

 

この発想は当然、決定論的世界観をも思わせ非常にペシミティックな印象を与えます。さらに先ほどの論調で反論されれば、ぐうの音も出ないほどに完成された思想という事も出来てしまいます。

 

このような思想を前に僕たちはどのように立ち向かっていけばいいのでしょうか?一つの方法としては新たな視点を提供することです。

 

「人間は常に自身の幸福を求める~?それなら人間は自身のどんな行動からも幸福を見出せるっていうひたすらにポジティブな生き物じゃん。イエ~イ」とこんなふうにである。

 

いずれにしても自由意志に関わってきそうな問題なので書き置いておく。

科学が正しいとは限らないという屁理屈に見える理屈

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「科学は本当に正しいのだろうか?」

 

こんな素朴なようで私たちの生活を根本から覆してしまいそうな疑問がある。普通ならば「お前何言ってんの?」と一蹴してそこで終わりそうなものである。今回のテーマはそんな「我々はいかに科学を信じているのか」というものである。 

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人間と機械は何が違うの?自由意志の危機と再確立への展望

f:id:AnnieAreYou:20161009024451j:plain哲学を語るうえで知識どころか前提の理解も十分にできていない、ということは今までの記事にて確認できてしまうと思います。

しかし積年のブログ人生によって培われた「書きたい、論じたい欲」というのは赤子のオギャアのように抑えきれず出てきてしまうわけです。「間違ってるかも、批判されるかもという恐怖」にも何食わぬ顔で打ち勝ってしまう自分の厚顔無恥さに呆れるとともに「やるからには成長したい」という当然の欲求もあります。

 

そこで今更の自己紹介という意味も併せて自分の関心がある哲学的分野の問題とそれに対する立場を表明させていただきたいと思います。つまりこのブログ全体に「恐縮ですう…」「個人的には…」という大変謙虚な文脈を付加させるとともに自身の方向性を明文化することで知の成長を促すという大変高貴で有意義な記事を書きます。

 

そりゃあ「昨日の自分は今の自分ではないし明日の自分についても同じ」でありますから関心や立場はコロコロと変わることは前提としたいと思います。そのときは今記事を更新するなり「僕の関心と立場 〇月号」なる記事を書いたりしたいと思っています。

 

では以下より本題

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